農業論はキモは論点整理
「論」とつくもの、すべてに該当するでしょうが、特に農業論は、論点整理が重要です。
というのも、農業がもつ顔はいかにも多彩です。
したがってどんな角度から、どんなタイムスパンで農業を見るかが論にとって極めて重要になります。
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農業はその昔、狩猟採集生活に終止符をうつ新しい営みとして誕生し、その後の大規模定住化を成立させる基盤産業になりました。当初は食糧という人間の生命活動のエネルギー源の産出が目的でしたが、生産力が高まり貯蔵されるようになると、食糧は富の象徴となり、格差を生む原因に。
また、農業は気まぐれな天候に左右されたため、作物の出来不出来はなにか大いなるものの意思のようにも見え、宗教とも深く結びつきました。
戦時には戦闘力の持続性を握る兵站としての機能ももち、穀物メジャーや農業法人からすれば会社の命運がかかる商品であり武器。
どういった理由であろうと、結果的に作られた田畑は良好な景観を生んで人々の癒しや美の対象となる時もあり、生産に携わる者にとっては誇りやアイデンティティーの象徴ともなる。国家にとっては国土の表象、あるいはその歴史が長ければ歴史と文化の表象。経済レベルが上がり現代社会への疑問が募れば代替するライフスタイルの軸に、あるいは毎日食べるゆえの薬。あるいは美を目的とした美容食品。
ひとたびもっと個人の目線に立ち、代々続く農家の身になれば、田畑は先祖と子孫をつなぐバトンの象徴でもあるが、同じ農家でも、税制上低コストで保有できる資産であり、公共事業時には価格が高騰する錬金術の材料と、考える人もいる。
まことに農業の捉え方は、十人十色です。
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ちょっと農業界を覗いてみたり、100年程度の歴史を振り返るだけでも、農業を象徴する食料や田畑が時と場合によって全く違う価値をもってきたことが分かるのです。
また、農村に住む一個人にとっても、農業は一つの価値だけをもつものではない。やはり、多面的な、ごちゃまぜな何かとして捉えられているのが普通です。経済活動でもあり、地域の一役割を担う作業でもあり、先祖伝来のなにかを背負う場所でもある。
だから、農業について論じるときは、どの点から農業を論じるかが極めて重要です。
経済活動の点からみれば生産コストやマーケットとの差別化や価格が、文化活動の点からみれば理念やスタイルが、環境保護の点からみれば科学的データや法規制が重要になる、といったようにです。
正直に言うと、現在の日本農業の状況では、既に文化的な視点で国民のコンセンサスを得るのは難しくなりました。農村から都市へ人が流出してから久しく、農業に縁遠い人が増えてしまったからです。農家には田畑を受け継ぐことに特別な意味がある、と言っても、ほとんどの人は分かりません。
他方で安全保障や豊かな食生活という観点では、誰しもが食事をする訳で、コンセンサスは得られやすい。
それに比べると、環境や健康というのは多くの人にとって抽象的な問題にならざるを得ないので、コンセンサスの難易度は上がりますね。今でも農業と環境・健康を結び付けて考える人は、日本(アジア圏では、と言ってもよいかもしれない)では少なく、意識高い系に分類されるでしょう。
あるいは、日本の場合は作物が育ちやすい温暖で湿潤な気候、用水路等の農業インフラの整備が進んでおり、食の文化が豊かであることなどの恵まれた資源をちゃんと使わないと勿体ない、という観点の方が、コンセンサスが得られるかもしれません。
「もったいない」というのは、結構日本人の心性には合ってるのかも。
日本にある農業資源をもったいなくしないために、どのようにグローバル経済で生き残る農業に磨いていくかが、日本農業論のキモかもしれません。