日本農業のディストピア③ ―「Open the door!」再度やってきた市場原理と自由貿易の黒船―
前回の記事で、戦後日本がコメ不足からコメ余りに至る過程で、コメを作る大義を失っていった経緯を振り返りました。
1970年代以降、作る意味を失い弱っていく日本のコメ業界に追い打ちをかけるように、今度は市場原理や自由貿易という波が押し寄せてきます。
今回は、現在にまで続く市場原理の導入が始まる1990年代以降のコメの歴史を振り返ります。
≫寒い寒い夏の日の1993
有名なポップソング「夏の日の1993」は夏の日のロマンチックな恋愛騒動の歌ですが、日本のコメにとって1993年はエキゾチックを味わう米騒動が起こった年でした。
そもそもの発端は冷夏。フィリピンのピナトゥボ火山の大噴火の影響で地球規模で太陽光が減少し、その影響もあって日本の平均気温が平年より2-3℃も減少したのです。
*1低温が収量減をもたらした大きな要因について詳細を言うと、①低温による生育ステージの遅れ、②低温+寡照による乾物生産と登熟歩合の大幅な低下、③低温+多雨による葉いもち、穂いもち病発生の助長、の三点とされています。元々気温のあがりにくい東北では被害が深刻で、作況指数は56という有様でした。結果、日本政府は260万トンのコメ輸入を行うことで急場をしのぎます。*2
≫海の向こうの1993
1993年にはもう一つの“冷害”がありました。
GATTウルグアイラウンド農業合意です。日本側はコメは特別な品目として輸入を制限したいと考えていましたが、その代償として最低限のコメの輸入、すなわちミニマムアクセス米を受け入れることになります。
結果、国内の田んぼが余り、米余りが生じているにも関わらず、アメリカ・オーストラリア・タイ・中国などから年間77万トンものコメを受け入れる不思議な現象が生じるようになります。ちなみにこのミニマムアクセス米の財政負担には、年間200億近いコストがかかっていますから、尚更不思議だと言わざるを得ません。*3
≫市場原理がやってきた
終戦直後は食糧難という国難を克服する必要があったという理由から、コメの流通は統制経済的に政府が管理していました。しかし1995年に食糧法が制定されてからは、民間業者の参入が容易になり、米価は市場原理にゆだねられることになります。
コメの家庭内消費が減ったことで相対的に大手量販店や外食産業が米価の主導権を握るようになり、米価引き下げの要求に引きずられる形で米価は低下。まさに買い叩かれる、という状況がより顕著になっていきます。
2004年の食糧法改正、2013年の政府による減反政策廃止の発表も日本農業にとっては大きなポイントですが、いずれの農政的決定が意味していることは、これまで保護してきた日本農業を保護から徐々に外して、他の産業と同じように市場原理を当てはめようという流れです。現政府が推進する「強い農業」は、こうした経緯の中で生まれたことを考えると極めて自然な成り行きです。
農業の生産現場をよく知る人ほど、農業が市場原理に晒されることに強い懸念をもちます。それは、農業自体が産業として気象に依存する極めて不安定な産業であることに加え、実は多様で複雑な価値を孕んでいる農村の価値が、市場原理という経済原理のみで破壊されることを危惧するからです。
しかし他方で、多額の税金を投与しながら、農協は農協のための農協と化し、高齢化問題や付加価値の創出といった課題の解決をまるで見ない日本農業の様相に経済界側の苛立ちは募っています。この苛立ちは、未曽有の高齢化社会を控え社会保障の増大が避けられないこれからの日本において消えることはないでしょう。過去の歴史から学べば、グローバル化や市場原理の推進が続くことは明白ですし、テクノロジーの進歩はこの動きを加速させています。
過去に学び現実を直視するならば、これからの日本農業の命運は、グローバル化や市場原理といった前提を踏まえた上で、どういった国際的な価値を創出していくのか。そのためになにを守り、なにを切っていくのか、ということが争点になっていくでしょう。