「戦争と農業」の読書まとめ
京大の歴史研究者である藤原辰史先生の「戦争と農業」を読んだので紹介。
なかなかドキッとするタイトル。
歴史学の視点は、言わずもがな長いタイムスケールと俯瞰性をもっているので、日頃の日常的な視点ではなくて、まさに歴史的に農業の変遷を知ることができて新鮮です。
特にこの本は、農業テクノロジーがそのまま戦争テクノロジーに転用されてるよ、って点を指摘している所が珍しいトコロ。
帯にも書いてありますが、トラクターは戦車に、化学肥料は火薬に、毒ガスが農薬に転用されてきたっちゅう話なのです。
そんなことはあまり考えたことがなかったなぁ。。。
という訳で、本の中身を簡単にまとめてみますよ。
1)人口増加を支えた4技術
あっしの過去記事でも紹介しましたが、20世紀の農業技術の革新(緑の革命)は、①高収量品種、②化学肥料の多投、③農薬による病害虫防除、④灌漑設備の整備の4つの要因よって成立してきた訳です。
で、この本でも、二十世紀の人口増加を支えた技術として四つが挙げられておりますが、④の部分だけ農業機械に置き換わっています。
緑の革命を推進した要因には農業機械の力も大きいですから、20世紀の農業技術の革新は5要因にした方がいいのかもしれません。
ちなみに、著者の藤原先生はトラクターからみた歴史の本も書いてるので、農業機械に強いってことでフォーカスしたのかも。
トラクターの世界史 - 人類の歴史を変えた「鉄の馬」たち (中公新書)
- 作者: 藤原辰史
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2017/09/20
- メディア: 新書
- この商品を含むブログ (7件) を見る
で、農業の経緯を語る本としては、ありがちというか基本ロジックですが、テクノロジーが大きな便益をもたらした反面、問題も起きた、という話が書いてあり。
牛馬に代わりトラクターが普及したことによって肥料調達の必要性が高まった問題(牛馬は糞という肥料製造機でもあったため)や、水俣病を代表とする化学肥料製造によって生じた環境問題、農薬による人体やミツバチへの影響問題、などなど。
他にも、遺伝子組み換え作物問題(企業への依存が高まる場合の弊害)についても書かれています。
2)トラクターが戦車に、化学肥料が火薬に、農薬が毒ガスに。
この部分がこの本の最も特徴的な部分でしょう。農業テクノロジーが戦争テクノロジーに代替されてくという話。僕もまったく知りませんでしたねぇ。
第一次世界大戦時、機関銃、地雷、砲弾、毒ガスがひしめく過酷な戦争下の膠着状態を打ち破ったのは、キャタピラを実装したご存じ戦車。
で、この戦車の開発のきっかけとなったのが、アメリカ製のトラクターだったそうなのです。ナルホド!という感じ。
イギリスとフランスの軍人と軍事産業が、アメリカの農地で稼働しているトラクターをみてひらめいた、とのこと。で、今度はジャンジャン戦車工場が建っていく訳ですね。
化学肥料の場合は、アンモニア肥料を作る化学的空中窒素固定の技術が火薬製造に使われた、とのこと。
火薬の原料としては硝酸が重要で、硝酸はアンモニアから作れるから。
そう言われてみるとコレもナルホド、という感じ。
ちなみに日本でも化学肥料製造で成長した日本窒素肥料と昭和電工が、戦時には火薬を大量に作ったそうです。うーん、窒素肥料―水俣病までは学校では習いましたけど、火薬までは知らなかったなぁー。
で、毒ガスの場合は逆で、戦争で余った毒ガスをどう処分するかってことになって、アメリカでは綿花栽培の農薬として利用されるようになったそうです。もちろん薄めてからね。
そんなこんなの事例をいくつも紹介してくれるので、そう言われてみると戦争と農業が抜き差しならない関係だってことが分かりますね。
まぁ今でいうと戦争でも農業でもドローンは利用されてるし、ICT技術の導入も同じですが、昔の方がテクノロジーがシンプルだったので密接な関わりだったな、という印象です。
3)飢餓と飽食
その他には、世界で生産されている食糧の三分の一が廃棄されているにも関わらず飢餓がなくならない問題や、ファストフード産業の隆盛によって生産者サイドの圧迫が強まっている問題など、食のシステムの矛盾についての記述があります。
そして、そうした歪んだシステムを少しずつ変える方法として、「ミミズのように生きる考え方」や「発酵食を軸にした活動」や「教育面からの改革」などの方法を提案していたり。
共感できるのは、スピードを遅らせることがまず重要だと考えている点。
大量に作り、迅速に運び、即座に効く。
農業の世界も、軍事の世界も、政治の世界も、教育の世界も、現代世界は、こういった原則をもとに仕組みができあがっていることをこれまでお話ししてきました。これらの原則のおかげで、世の中はたしかに一見、便利になりました。けれども、迅速・即効・決断の社会は、人間の自然に対する付き合い方も、人間の人間に対する付き合い方も、硬直化させてきました。
特に農業は自然界を相手にする訳なので、人間社会とはスピード感や前提が色々と違っています。ま、教育の方がもっとタイムスケールを長くもたなくちゃいけない業界ですね。かといって、自然界だけに目を向けているだけじゃあ社会から孤立しちゃうな、ってことを思っていたら、ちゃんとそのことも書いてありました。
もちろん、テンポよく進む「ファスト」を否定するのではありません。逆に、ダラダラと間延びした「スロー」を肯定するのでもありません。それでは、さまざまな関係性をスロー一色で染めてしまうことになりかねません。そうではなく、速いか遅いかは、人間と人間、人間と生物の即興的な「間合い」の取り方によって、どうとでも変わるのであって、遅効性というのは、その「間合い」を、リズムよい関係になるまで待ちましょう、場合によっては効果がなくてもつぎを考えましょう、というあり方なのです。
内容についてはこんなトコロですかね。
著者の藤原先生が立派だと思うのは、自分達学者に対しての問題点を自ら指摘しているトコロ。
歴史研究者は、仕組みを考え直したいとき、とても便利な人間であることも事実です。国単位、地域単位で、為政者が忘れてほしいことから、失敗に終わったけれどユニークなチャレンジまでいっぱい知っていて、そのリストを作ったり検証したりするのもお手のものです。ところが、これまでの歴史研究に携わる者は、学問の世界から外に出て発現することはなく、学術の文体とは異なる言葉で思いやアイディアを自由に語る場を増やしていくことにあまりにも無頓着でした。
そんなことはわざわざ言わなくても、というか言わない方が、大学や研究機関では目立たなくていいし、波風立てずにやっていける訳ですからね。
ましてや、それなりの立場が確保され、家族もいる人であったら、尚更のことです。
ということで、「戦争と農業」という本を読んでたら、なんとなく著者の人の雰囲気も感じ取れたような気がしました。