おコメ博士の闇米日記

オワコンと言われがちな日本のおコメ。令和のこの時代に、グローバル視点で日本でおコメを作る意味を考えます

日本農業のディストピア② ―戦後日本コメ作りの諸行無常―

終戦直後のコメ不足

激しい戦争の余韻冷めやらぬ1950年代初頭、空から降ってくる爆弾に怯えることはなくなりましたが、戦中から続くコメ不足が依然として継続していました。それは、1000万人餓死説が流れる程の食料危機でした。

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(1955年に撮影された日本の農村の風景。地さな区画の田んぼが隙間なく並んでいる

Old Farm & Mountains - 1950s Japan | An old farm with mounta… | Flickr

 

コメの需要を供給が下回っていたため米価は高く、現代の価格でいうと1950年の米価は1万2000円/5kg程度。そのため農家所得は都市の勤労所得を上回っていました。

政府はコメ増産を推進、戦後復興の中で化学肥料工場の復旧を優先的に行ったことや機械化が進んだこともあって、収量は順調に増加。また1960年代には経済成長によって都市の勤労所得が増加したことを受けて、コメの「生産費および所得補償方式」が採用され、生産者米価の引き上げも行われます。コメ農家の生産意欲は高く、多収を競う米作日本一コンテストでは1トン/ヘクタールの多収穫を実現する農家もみられました。(現在の全国平均が500キロ/ヘクタールなので2倍程度)

 

≫薔薇色の1960s

その時代―――

今の時代にはないものがありました。

それは、戦中はまともに食べることが出来なかった白米を日本人皆が食べれるようになろう、という大義。そして、コメの多産を全面的にバックアップする政府の後ろ盾。作れば儲かる経済的メリット

農村に活気があり、都市の富が農村に流れてくる時代でもありました。未だに高齢のコメ農家の方がこの時代を思い出話に語ることは珍しいことではありません。高卒の息子が実家の農業を継ぐとなれば、気前よく父親が外車をプレゼントした、なんて話が普通にある時代でした。

 

≫コメ自給100%の悲願達成

そして1967年、遂にコメ生産量が総需要量を上回り、コメの国内自給100%が達成されます(それまではビルマ、タイ、エジプト、アメリカを中心に多くの国から外米を輸入していた(下表)、というのは今回リサーチしてく中で初めて知りました)。

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(戦後食糧輸入の定着と食生活改善:https://www.jstage.jst.go.jp/article/joah/36/0/36_KJ00009050278/_pdf

 

餓死者が数千人レベルで出た終戦直後からおよそ20年。経済発展とコメ農家の保護、生産奨励と経済的サポートによって、念願だった日本人皆が白いコメを食べれる!という状況を達成したのです。この時、日本農業におけるコメ生産の大義は成就したのでした。

 

≫コメが余る

完全自給を達成した1967年と続く2年は大豊作の3年間となりました。コメ需要が1250~1350万トンで推移していたのに対して、1400万トンを超えるコメが生産されています。つまり、この3年間でコメは大量に余ることになるのです。そして、後になってデータを見れば明らかなことなのですが、コメ自給100%達成という大義の裏で、この頃から既に日本人のコメ離れは進んでいたことが分かります。

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(コメ需要は1963年の1341万トンをピークに現在まで徐々に減少を続けている。)

 

経済成長によって国民の生活レベルが上がるにつれ、食卓の国際色は増してゆき、必然的にコメのウェイトは相対的に小さいものになっていきます。時は、華やかな経済成長の時代。国民のコメ離れが進むことでコメ作りの大義が薄れ、政府の支援の根拠が薄くなり、経済的メリットが小さくなる、という時代が、この頃から徐々に頭をもたげはじめるのです。

 

≫作らずして生きる時代へ

大量のコメの在庫に困った政府は生産の減少を決断します。

それは、やむを得ない決断だったでしょう。国民のコメの消費量は減っているし、海外輸出も現実的な時代(できたかな?)ではなかったからです。また、コメの保管にも大きなコストがかかり、実際1971~1974年の過剰米処理は740万トンに及び、損失額は約1兆円と言われています。

コメが余るまでの時代は、農家にとって作って稼いで生きる時代。しかしコメが余ってからの時代は、農家にとって作るのを我慢して稼ぐ時代に突入します。そう、減反政策の始まりです。

1971年から減反政策は本格的にスタート。減反実施農家に1万5000円/10aの補助金を給付しました。その後、2018年まで続く長い減反時代の幕開けです。

今ふりかえってみると、生産調整はやむを得ない政策だったとは言え、この政府の急激な方向転換は、ついこの間まで増産に意義を感じていたコメ生産者の心理に大きな影響を及ぼしたことは間違いないと思われます。

現在、日本のどこの農村でも「強い農業」が求められていますが、多くの高齢農家にはその意欲は湧いていません。それは、半世紀ほど続けてきた減反政策の影響が決して小さくはないと思えるのです。

 

終戦から1970年代までの経緯のまとめ

さて、終戦から1970年頃までのコメの歴史をまとめると、以下のようになります。

1)終戦直後はコメ不足だった

2)コメの増産が大義であり、政府も増産を奨励した

3)コメ完全自給が達成され大義が成就した

4)他方でコメ離れが進み、コメをこれ以上つくる必要がなくなった

5)政府はコメの需給調整のために減反政策を決断した

6)コメ農家は作らないことで収入を得るようになった

 

その後、グローバル経済の進展により自由貿易の波が日本にもやってきます。そのあたりの展開は、次回の記事で。