おコメ博士の闇米日記

オワコンと言われがちな日本のおコメ。令和のこの時代に、グローバル視点で日本でおコメを作る意味を考えます

自己紹介#3 おコメ博士グレる!?意味を求め始めた思春期編

自己紹介が2編続きました。

第1編 生まれる前の話↓

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第2編 生まれてから中学3年生までの話↓

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今回の第3編では、酪農地帯の田舎から北海道のメトロポリタン札幌にお上りし、はじまった高校生ライフでの紆余曲折を紹介します。

 

1.思春期×1人暮らし×哲学・文学・映画の衝撃

2004年、高校一年生となった僕の札幌ライフが始まった。今思うと、アホな中学3年生の僕はほぼ一人暮らしといっていい札幌新生活が始まったその意味をまるで理解していなかった。それはカズがブラジルにサッカー留学したくらいの大きな変化のタイミングだったのに、呑気な僕はちょっと隣の学校に転校したくらいの気でいたものだよ。

(高校一年生で高校中退し、ブラジルのサッカーチームに飛び込んだカズさん↓)


カズ コリチバ時代のインタビュー動画

進学した高校は普通の公立校だから寮などなく、専門学校生が入っている飯つきの小さな下宿に僕は居を構えた。入ったサッカー部も田舎のそれに比べると大分勝手も違って、タイヤを引いてグラウンドを走り込むようや激しいトレーニングの日々がはじまっていた(パワプロのサクセスかよ!)。もちろん勉強の方も、ヤンキー中学のゆるゆるペースとはだいぶ違っていた。(そして窓ガラスが割れる音のしない日常ってのが新鮮だった。)

つまり、何もかもが違う生活がいきなり15の春からはじまったのだ。

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腰にわるくない?

人よりも牛の数が多いド田舎から単身乗り込んだ元牛世界の人間は僕1人だったから、地元が札幌で人間の言葉を話すクラスメイト達とは状況がかなり違っていた。それでも、嫌でも毎日顔を付き合わせるサッカー部に入ったのでそこが自然とコミュニティとなった。僕は牛語を忘れ、人間の言葉を覚え始めていた。まぁ冗談はおいておいて、高校時代はサッカー部に始まりサッカー部に終わったと言っていいくらい、濃密な時間を部活で過ごしたものだ。

そうした身の回りの変化と共に、自分の内面的な変化もこの時大きく現れ始めていた。そのきっかけの1つが当時高校の授業科目だった「倫理」である。僕はそこで「哲学」という学問に出会い衝撃を受けることになるのだ。

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哲学の巨人ソクラテス。「無知の知」に僕は痺れた。「僕は何も知らなかったこと」をソクラテスは電撃的に教えてくれた。

2.「そもそもさ・・・」という哲学の視点の衝撃

普通学問ってのは、例えば「生物」だったら「生物がどのように成長するのか」「どういうメカニズムで生殖は行われてるのか」とかを学ぶものだ。ところが「哲学」ってのは、「なぜ生物は存在しているのか?」「そもそも生殖とはなにか?」を考える学問だった。それまで、与えられたゲームでハイスコアをとることに価値を感じていた僕にとって、哲学はまったく違う学問、まったく違う視点だったんだよね。

 

もう少し哲学についてのエピソードを挿入しよう。当時国語の教科書で知ってとても面白いと思った評論に「なぜ人を殺してはいけないのか?」という永井均先生の著作がある。なんだか不穏な、怪しいタイトルでしょ?殺人ってのは普通の世界じゃあ誰も疑いをはさまない悪いことだから。でも彼は自明のはずの殺人の善悪について、「果たして本当にそうなのか?」と改めて深く考える文章を書いた訳だ。「殺人がいいのか悪いのか」という話ではなくて、その思考のプロセスに僕の知的好奇心はビリビリ震えた

なぜ人を殺してはいけないのか? (河出文庫)

なぜ人を殺してはいけないのか? (河出文庫)

 

ソクラテスニーチェキルケゴール等の哲学本、あるいは三島由紀夫の「仮面の告白」、夏目漱石の「こころ」、など、手に取る本のレベルも高くなってきて、僕はもっぱら勉強から退却して本や映画の世界に入り込むようになった(無論サッカー部の鬼顧問のスケジュールは完全なる没頭をさせはしなかったけど)。勉強から退却したのは本や映画への関心が高まったこともそうなんだけど、同時に受験勉強が馬鹿らしく思えてきたからでもあった。

 

「それって、なんか意味あんのか?」というようなね。

まぁ思春期なら誰しもがもつ疑問なのかもしれません。 

3.哲学がもたらす大きな弊害

哲学というとカッコいいと思う人もいるみたいなんだけど、意味を考え始めることは、社会生活上は大きな弊害を伴う。なぜかっていうと、目の前に取り組んでいることの意味を考え始めてしまうからだ。

本当に受験勉強に意味はあるのか?

本当に就職活動をして自分は幸せになるのか?

本当に人生は生きるに足るものなのか?

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人間、考えだすとキリがない。でも考えるのが人間だけどね。

結論からいうとそんなことを考えても結論は出ないし社会生活上の得はなにもない。そんなことを考えてる暇があったら、受験勉強なり就職活動なり目の前のことに夢中になっていた方が人生はよっぽど開けていく。たいていの大人がそう答えるだろう。でも、そういうことを考えざるを得ない時期っていうのはあるんだよね。僕の場合、それがちょうど思春期の高校生の時期に盛大に始まっていた訳だ。

 

この間までいい高校に入ろうと必死になって勉強していたくせに、いつの間にか僕は「いい大学に入ってどうすんのよ?」的に態度をひるがえしていた。なにをクソ真面目に時間通りにいかなきゃならんのだ、という生意気な感じで学校の遅刻も増え始め、サッカー部員のくせにキッチンで一人、夜空を眺めながらで煙草をふかすようになったりしていた。なんだかあの時は不良になった幼馴染が身近に感じられたものだった。

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実際は挨拶をきちんとするいい子だったんだけどね

そんな風に不良化していった僕だが、それまで知らなかった哲学・文学・映画についてはドンドン吸収しセンスも高めていたから、よっぽど賢くなっていた気ではいた。

とはいっても、勉強をまったくしなくなり、本や映画に没頭しはじめた高校生が第三者の目にどのようにうつるかは誰しもがご存知の通りだろう。中学生までは母に従順だった僕も、高校に入ってからは母と衝突することが増えるようになった。成績もみるみる下降し、理科や数学は学年でビリから数えた方が早い所まで落ち込んだ。

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体によさそう、と思って初めての煙草に「Peace」を選んだけど、すっごく濃くてムせた淡い青春時代。

結局、中学で貯金した学力を高校三年間で崩し切って、僕はまさに「とりあえず」という感じで明治学院大学というお世辞にも賢いとはいえない大学の文学部に入学することになる。それも客観的にみてみると、私立の関東の大学に、親に金を出してもらいながら行く訳で、ひじょーに恵まれている訳なんだけど。当時としては「しょーがねーな。いくか」くらいの不遜な態度だった。

で、やっぱり大した目的もなく「とりあえず」大学に入っちゃったものだから、そこでも僕は「とりあえず」暮らす生活をはじめちゃった訳です。

というここで第3編はここまで。農業はまだ出てきませんね。カミングスーンです!

自己紹介#2 おコメ博士の幼少期とってもマジメ編

前回はおコメ博士誕生前の話を書きました(↓)。今回はやっと誕生後のお話です。

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僕には姉がいて、今はシングルマザーとして小学生二人の子を育てている。両親の家も近いので、両親が孫を預かることも多いのだが、母が孫に宿題を教えている様をみると、まるで自分が子供時代に教わっていた光景をみているような不思議な気持ちになる。共働きよりは時間的な余裕がある専業主婦という状態も大きかったと思うけれど、それを差し引いても母の教育への意識は高かった、といま改めて思ったりする。(孫に対して、僕や姉よりもよっぽど母は教育熱心だ。)

今回はそんな教育熱心だった母の影響を大きく受け、真面目に成長した僕の15歳までを書いてみる。

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僕が生まれ育った北海道中標津町は、広大な酪農地帯で牛の数が人の数よりも多いということでお馴染み?だ。

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田舎なので当時はマックもケンタッキーもなく、映画館もなく、娯楽といえば寂れたボーリング場が申し訳程度に一つあるくらい。田舎ではありがちだがヤンキー・暴走族的な人もかつては結構いて、中学校で同級生の不良君がムカついた教師をぶん殴り逮捕、それがヤフーニュースに載ったことに僕たちははしゃいでいたりした(ずいぶんと不名誉なことではしゃいでいたものだ)。

そんな調子だから、先輩や友達でも「その道」にいった人もいるし、「その道」から抜けようとして消息不明になった人もいる(あぁ怖い)。まぁお世辞にも、教育レベルが高い環境とは言えなかった訳だ。

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中学校ではゴミ置き場がタバコでボヤ騒ぎになったり、窓ガラスが毎日のように不良君達に割られる感じで荒れていたね。

まぁ僕らは不良君達とも幼馴染のようなもので、それなりに仲良くやっていたし、「悪い」ってのはあの時代は一つのステイタスのようなものだから不良はむしろ一目置かれている存在だった訳なんだけど、親からすると見方はまぁ違ってくる。

だから母は、勉強や教育といったものに人よりも多く介入していたと思う。

小学校入学ちょっと前に国語や算数の基礎を僕に教えたり、小学校高学年くらいからECC英会話に通わせたり(このECC英会話は僕の英語能力向上にまったく貢献しなかったけれど)と、まわりのクラスメイトに比べると僕はちょっと早めに、ちょっと多めに、教育を受けていたと思う。まぁ中学受験するような都市圏の子供達に比べるとだいぶ牧歌的なレベルだけど。

早い時期に文章に慣れ親しむようになったお陰で僕は本好きになり、母も読書を強く推奨していたので、小学校中学年くらいで図書館にあった江戸川乱歩シリーズ」「世界の偉人シリーズ」を全巻読破したりした。江戸川乱歩シリーズはそれこそ小学生・中学生達の少年探偵団が活躍して事件の犯人を追い詰めたり、名探偵明智小五郎が誰にでも変装できる怪人二十面相と対決したりで面白かったので、没頭して読んでいたな。ここで漢字も結構おぼえたような気がする。僕がブログを書き始めたのは2017年の12月くらいからだけど、文章に馴染みがあったのは元々この時期に本好きになったことが大きく関係してるだろう。

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漫画はワンピース、名探偵コナンキャプテン翼あたりを読んでいて、逆にドラゴンボールクレヨンしんちゃんは母の方針で見ていなかった。なんでドラゴンボールがダメだったんだろう

他は近所の公園で草野球やサッカーをしたり、ケードロ(鬼ごっこみたいなやつ)をしたり、冬になれば氷上サッカーをしたりと、まぁかなり外遊びが多い普通の健全な小学生時代を過ごしていた。当時ほとんど誰もやっていなかった「缶蹴り」を復刻させるなど、昔好きな面も持ち合わせていた。

そんな感じで、小学校時代はちょっと本好きの小学生くらいの感じでのんびりとしていたのだが、中学校に入ってから母はギアを入れ始め、「勉強せよ」と僕の尻をよく叩くようになった。

というのも、三年後には高校受験が迫っていたから。

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当時の北海道の高校の最高峰は札幌南高校で、僕も一応そこを目指していたのだが、塾の先生のアドバイスにしたがってランクを落として札幌東高校を受験しました

地元中標津町には高校が3校しかなくて、どこも定員割れの勢いだったから、まぁフリーパスのような学校だった。だから大体、もっと勉強したい人は釧路とか札幌とか函館とか、故郷を飛び出して都市圏の高校に行くのが普通だった(僕の姉も90km離れた釧路の釧路糊料高校に進学しているし、悪友は函館ラサールに進学した)。当時は受験枠ってのも厳しくて、例えば札幌の高校を受けようとすると、僕は住所が札幌にないので学区外受験ということになり、入学者数の2%の枠内で勝ち残る必要があるんだよね。学区外から受ける人はだいたい猛者なので、合格ラインってのも高かったのだ。

だから中学生になってからは僕はよく勉強したと思うよ。

中一、中二は基本的に学内の中間・期末テストの対策と、年1回くらいの全道模試をターゲットに自習している程度だった。まぁ自己流の時代。

ところが中学三年生になってからは、いよいよ天王山も近いということで、週末は90km先の釧路まで通って北大学力増進会っていう塾に通っていた。ちなみに北海道だと北大学力増進会なんだけど、東北だと東北大進学会で、関東だと東大進学会って名前なんだよね。まぁつまり全国チェーンの学習塾って感じ。

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結論から考えると、高校受験の傾向や対策とか豊富なデータをもってる増進会にいってなければ僕はそこまで点数あげられなかったと思う。受験は頭がいい・悪いというよりテクニックだと今も思うよ。

学力増進会のシステムは競争原理をふんだんに導入しており、テストのたびに点数がランキングが公開され、成績順で席が変わるシビアな世界だった。良い奴は一番前の列。悪い奴は一番うしろの列。もっと悪ければ下のクラスに落とされる。いかにも競争社会という感じがするが、当時はホントにゲーム感覚でライバルと争っているような感じで楽しかった。「アイツのスコア、次は越してやるぞ!」みたいな。まぁよくも悪くも僕はまっすぐだった訳です。

結局、僕はその釧路の増進会の特進クラスでトップの方になることはなくて、釧路湖陵理数科や札幌南高校に行った連中が最前列を陣取っていたけどね。

まぁそれでも僕も順調に成績を上げていって、北海道全域の学力コンクールでは28位/13995名(偏差値70.6)まで順位を上げていた。

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昔のいい成績をあげるなんて過去の遺産的で気が引けるけど、この後の展開のフリとして重要だから置いておきます。

結果、僕は当時勉強レベルもそこそこ高く、公立校にしてはサッカーも強いと評判だった札幌東高校を受験することに決めた。

そして、1月にブラックアイスバーンで車がスリップして反転するというアクシデント、受験当日遅刻するというダブルアクシデントにあいつつも、なんとか合格して酪農地帯から脱出するチケットを得たのであった。

あの1年、高い月謝を払い、親は毎週90km先の釧路まで送り迎えしていたのだから、それは強い気持ちがなければ実現しないだった、と改めて思う。

それなりのコストをかけたが、母の教育の成果はこうして1つの形となり、僕は次の大学受験に向けて確かな一歩を踏み出すことになったのだが。。。繰り返すが、僕も母も、まさかそのあと僕が農業の世界に踏み出すことなどこの時もつゆほども思っていないのだが。

高校進学のために僕は札幌へ向かう中標津新千歳空港のプロペラ飛行機に乗った。ガタガタ揺れる飛行機から眺め見る雄大な畑に何が植わっているなど、僕がその時まるで関心をもっていなかったように、その時はまだ農業は視界にまったく入っていない別の世界だった。

 

農業がまだまだ出てきませんが、次は高校編です。まだまだ続きます。