自己紹介#2 おコメ博士の幼少期とってもマジメ編
前回はおコメ博士誕生前の話を書きました(↓)。今回はやっと誕生後のお話です。
僕には姉がいて、今はシングルマザーとして小学生二人の子を育てている。両親の家も近いので、両親が孫を預かることも多いのだが、母が孫に宿題を教えている様をみると、まるで自分が子供時代に教わっていた光景をみているような不思議な気持ちになる。共働きよりは時間的な余裕がある専業主婦という状態も大きかったと思うけれど、それを差し引いても母の教育への意識は高かった、といま改めて思ったりする。(孫に対して、僕や姉よりもよっぽど母は教育熱心だ。)
今回はそんな教育熱心だった母の影響を大きく受け、真面目に成長した僕の15歳までを書いてみる。
僕が生まれ育った北海道中標津町は、広大な酪農地帯で牛の数が人の数よりも多いということでお馴染み?だ。
田舎なので当時はマックもケンタッキーもなく、映画館もなく、娯楽といえば寂れたボーリング場が申し訳程度に一つあるくらい。田舎ではありがちだがヤンキー・暴走族的な人もかつては結構いて、中学校で同級生の不良君がムカついた教師をぶん殴り逮捕、それがヤフーニュースに載ったことに僕たちははしゃいでいたりした(ずいぶんと不名誉なことではしゃいでいたものだ)。
そんな調子だから、先輩や友達でも「その道」にいった人もいるし、「その道」から抜けようとして消息不明になった人もいる(あぁ怖い)。まぁお世辞にも、教育レベルが高い環境とは言えなかった訳だ。
まぁ僕らは不良君達とも幼馴染のようなもので、それなりに仲良くやっていたし、「悪い」ってのはあの時代は一つのステイタスのようなものだから不良はむしろ一目置かれている存在だった訳なんだけど、親からすると見方はまぁ違ってくる。
だから母は、勉強や教育といったものに人よりも多く介入していたと思う。
小学校入学ちょっと前に国語や算数の基礎を僕に教えたり、小学校高学年くらいからECC英会話に通わせたり(このECC英会話は僕の英語能力向上にまったく貢献しなかったけれど)と、まわりのクラスメイトに比べると僕はちょっと早めに、ちょっと多めに、教育を受けていたと思う。まぁ中学受験するような都市圏の子供達に比べるとだいぶ牧歌的なレベルだけど。
早い時期に文章に慣れ親しむようになったお陰で僕は本好きになり、母も読書を強く推奨していたので、小学校中学年くらいで図書館にあった「江戸川乱歩シリーズ」や「世界の偉人シリーズ」を全巻読破したりした。江戸川乱歩シリーズはそれこそ小学生・中学生達の少年探偵団が活躍して事件の犯人を追い詰めたり、名探偵明智小五郎が誰にでも変装できる怪人二十面相と対決したりで面白かったので、没頭して読んでいたな。ここで漢字も結構おぼえたような気がする。僕がブログを書き始めたのは2017年の12月くらいからだけど、文章に馴染みがあったのは元々この時期に本好きになったことが大きく関係してるだろう。
他は近所の公園で草野球やサッカーをしたり、ケードロ(鬼ごっこみたいなやつ)をしたり、冬になれば氷上サッカーをしたりと、まぁかなり外遊びが多い普通の健全な小学生時代を過ごしていた。当時ほとんど誰もやっていなかった「缶蹴り」を復刻させるなど、昔好きな面も持ち合わせていた。
そんな感じで、小学校時代はちょっと本好きの小学生くらいの感じでのんびりとしていたのだが、中学校に入ってから母はギアを入れ始め、「勉強せよ」と僕の尻をよく叩くようになった。
というのも、三年後には高校受験が迫っていたから。
地元中標津町には高校が3校しかなくて、どこも定員割れの勢いだったから、まぁフリーパスのような学校だった。だから大体、もっと勉強したい人は釧路とか札幌とか函館とか、故郷を飛び出して都市圏の高校に行くのが普通だった(僕の姉も90km離れた釧路の釧路糊料高校に進学しているし、悪友は函館ラサールに進学した)。当時は受験枠ってのも厳しくて、例えば札幌の高校を受けようとすると、僕は住所が札幌にないので学区外受験ということになり、入学者数の2%の枠内で勝ち残る必要があるんだよね。学区外から受ける人はだいたい猛者なので、合格ラインってのも高かったのだ。
だから中学生になってからは僕はよく勉強したと思うよ。
中一、中二は基本的に学内の中間・期末テストの対策と、年1回くらいの全道模試をターゲットに自習している程度だった。まぁ自己流の時代。
ところが中学三年生になってからは、いよいよ天王山も近いということで、週末は90km先の釧路まで通って北大学力増進会っていう塾に通っていた。ちなみに北海道だと北大学力増進会なんだけど、東北だと東北大進学会で、関東だと東大進学会って名前なんだよね。まぁつまり全国チェーンの学習塾って感じ。
学力増進会のシステムは競争原理をふんだんに導入しており、テストのたびに点数がランキングが公開され、成績順で席が変わるシビアな世界だった。良い奴は一番前の列。悪い奴は一番うしろの列。もっと悪ければ下のクラスに落とされる。いかにも競争社会という感じがするが、当時はホントにゲーム感覚でライバルと争っているような感じで楽しかった。「アイツのスコア、次は越してやるぞ!」みたいな。まぁよくも悪くも僕はまっすぐだった訳です。
結局、僕はその釧路の増進会の特進クラスでトップの方になることはなくて、釧路湖陵理数科や札幌南高校に行った連中が最前列を陣取っていたけどね。
まぁそれでも僕も順調に成績を上げていって、北海道全域の学力コンクールでは28位/13995名(偏差値70.6)まで順位を上げていた。
結果、僕は当時勉強レベルもそこそこ高く、公立校にしてはサッカーも強いと評判だった札幌東高校を受験することに決めた。
そして、1月にブラックアイスバーンで車がスリップして反転するというアクシデント、受験当日遅刻するというダブルアクシデントにあいつつも、なんとか合格して酪農地帯から脱出するチケットを得たのであった。
あの1年、高い月謝を払い、親は毎週90km先の釧路まで送り迎えしていたのだから、それは強い気持ちがなければ実現しないだった、と改めて思う。
それなりのコストをかけたが、母の教育の成果はこうして1つの形となり、僕は次の大学受験に向けて確かな一歩を踏み出すことになったのだが。。。繰り返すが、僕も母も、まさかそのあと僕が農業の世界に踏み出すことなどこの時もつゆほども思っていないのだが。
高校進学のために僕は札幌へ向かう中標津ー新千歳空港のプロペラ飛行機に乗った。ガタガタ揺れる飛行機から眺め見る雄大な畑に何が植わっているなど、僕がその時まるで関心をもっていなかったように、その時はまだ農業は視界にまったく入っていない別の世界だった。
農業がまだまだ出てきませんが、次は高校編です。まだまだ続きます。