おコメ博士の闇米日記

オワコンと言われがちな日本のおコメ。令和のこの時代に、グローバル視点で日本でおコメを作る意味を考えます

自己紹介#1 「農業なんて…」と母は思った。おコメ博士誕生前のアナザーストーリー

田んぼを耕すロータリーの刃を傷つけぬようにと田んぼの石を拾い、泥まみれになりながら入排水の詰まりを解消し、日曜日は集落の共同作業に出席し、と今では僕はすっかり農業者だ。暖かくなった春に喜びつつも、今年もコメ作りが始まるなと気を引き締め、繁忙期には口数が減るほど消耗している。そして何よりも秋の豊作を祈っている。

 

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田畑のまわりに転がっている石はなにかと農機を痛めるんです。なので大変でも拾うのが吉。

といっても、そもそも僕の父は町役場の公務員で、母は専業主婦。いわゆる非農家出身の農業シロウトで、子供時代からトラクターに乗っているサラブレット農家(田舎じゃ結構あることなのよ)とは雲泥の差があるのだ。

もちろん親は農地なんてもっていない。「この銘柄じゃなきゃダメ!」みたいなコメへの異常なこだわりもない。

そんな両親から生まれた僕が、なぜ今、100人にも満たない限界集落に住みながらコメ作りをしているか、聞かれることもしばし増えてきたので、このブログで書いてみようと思う。ちゃんと話そうと思うと、とても立ち話レベルで終わるとは思えないからだ。(今度から「詳細はブログで!」という怪しいCMまがいの会話をしてみよう( ;∀;))

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さて、僕が生まれたのは1988年5月26日。このブログを書いているちょうど今日、それも1時間ほど前に元号が「平成」から「令和」に変わった所だけども、僕が生まれた1988年も結果的に「昭和」から「平成」に変わる節目の年だった。ちょうど、日本経済がバブル景気の真っ最中でお祭りムード。そんな右肩上がりのムードに乗せられたのだろう、我が家でも僕が生まれてすぐ、北海道っぽい吹き抜けの造りのマイホームを建てている(30年ローン)。

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こんな立派な家じゃないが、二階建て吹き抜けの四人家族には十分な広さのおうち。

まぁそんな話は置いておいて、僕が今回の記事で書きたいのは僕が生まれる前の話である。最近になってしみじみ思うのだが、農業に関わるようになった因縁は、実は僕が生まれる前から始まっていたような気がしてならないからだ。スティージョブズの有名なスタンフォード大学でのスピーチじゃないけれども、その時は気付かなかった「点と点」が、最近になって不思議とつながってきた感触がある。


Steve Jobs 2005年・卒業式スピーチ・日・英語同時字幕

僕の母の話を書こう。僕らゆとり世代の特徴だろうけれども、我が家では母の影響が非常に強い。つまり父の影響力が非常に小さい。父性が失われた世代、というのだろうか。父が一家の大黒柱、父が気に食わなければチャブ台がひっくり返る、という昭和的雰囲気は我が家にはまるでない。実際、一人の勤め人として我が家の家計を支えたのは間違いなく父なのだが、家庭内のことについて母は絶対的な権限をもっていた。特に教育について母は妥協のしない人間だったから、その環境は僕の人格形成に大きな影響を与えたことが最近になってよぉく分かる。

 

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かかあ天下って感じでもないけどね。妥協しない感じ。

時間をさかのぼろう。僕の母が生まれたのは昭和35年1月26日。今から約60年前だ。時代は戦後経済が始まりつつも、東京オリンピック開催もまだで、日本全体がまだまだ貧しい時代である。ましてや、母が生まれた青森県野辺地町という本州最北端の僻地は漁業が中心の寒村で、貧しかった母の一家は、家族総出の漁業と農業とで食いつないでいた。母は五人兄弟の中では珍しく勉強が好きな少女だったが、朝は漁の手伝い、下校したらすぐに農作業の手伝いでろくに勉強はできなかったそうだ。母や兄妹に勉強を教わろうとしても、「そんなことやってる暇があったら!」と一蹴されたそうだ。田舎じゃ勉強を応援してくれる人も少なかったそうである。ましたやかつての時代の女性には猶更だろう。母は未だにそうした経験を根に持っており、「田舎」に対してのイメージの暗い影の一つとなっている。その幼少期の不遇が、後に子供が生まれた後の非常に熱心な教育意識とつながっているのは、必然といえば必然なのかもしれない。

 

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そういうことを考えると、時代や社会って人の人生を決定づけてるよね。

大学進学など叶わぬ一家の経済状況故に、母は高校卒業後東京の信用金庫に就職した。その進路は母の人生にとって分岐点だったと思う。田舎では決して知りえなかった茶道に出会ったり、長嶋茂雄が活躍していた巨人の試合を見に行ったり、信用金庫の先輩たちが色々な世界に連れて行ってくれたそうで、東京ライフを随分と楽しんだようだった。そうなると当然「寒村での単調な寂しく貧しい生活は最低!華やかな都会での文化的生活は素敵だ!」という価値観が長らく母に根差すことになる(普通、人はそう思うよね)。その後、(なにを間違ったか?)北海道出身の父と出会い、都会とは離れた北海道ライフが始まることになるのだけど。

 

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別の世界を知ると、たいてい人の意識も別なものになるよね。

そういう訳で、勉強時間を奪った「田舎」や「農業」に母はポジティブなイメージをもっていなかった。また「東京」の華やかな生活の経験は母に別の世界を見せてもいた。その時代の親にとっては一般的だったのだろうけど、母もまた子供には十分な教育を受けせたいと思ったし、北海道の田舎から出てもっと広い世界をみてほしい、という願望を強くもってもいた。まぁ僕はといえば、「親の心子知らず」というもので、そんな母の物語に想いを馳せるはずもなく、勉強なりスポーツなりが出来ることを当たり前のように感じていたのだが。。。

 

今回はここまで。次回の記事では、自分が勉強したくても出来なかった故に人一倍教育熱心だった母が、僕に与えてくれた教育についてを書いてみようかな。で、ネタばれをすると、当然母はその息子が後に「田舎」と「農業」に向かっていくことなど露ほども想像してはいないのだが。。。いやはや、人生は想定外。「おコメ博士の紆余曲折シリーズ」続きます。